第8講 日本で大学教授になる
2013年12月03日
 
 日本に帰ると、日本での困難が待ち受けていたのです。どういう困難かというと、日本で2つの大学から、「博士号を取ったなら、来ないか」という話がありました。一つは筑波大学、もう一つは名門の私立大学です。名前を言うと、ちょっと問題があるので言いませんが、最初は名門の私立大学の方に行こうとしてたのです。しかし、そこの大学で、講師として受け入れてくれるには全体の3分の2の合意(賛成)が必要でしたが、私の面倒を見てくれた先生が、「残念だけど、3分の2取れなかったよ。」と言われました。せっかく、アメリカのハーバード大学で博士号とって来て、そしてようやく仕事をしようと思ったら、その就職が駄目になった。仕方がないから、最初に断った筑波大学にもう一度お願いしました。一年間かかりましたけど、筑波大学が私を専任講師として採用してくれました。それが1980年、33歳の頃です。
 33歳にしてようやく仕事ができるというのが現状です。日本に帰って熊本に挨拶に来ておりませんでしたので、まず両親と、それから友達、それからお世話になった先生達に挨拶に行ったんです。「ハーバード大学で博士号を取って、いよいよ筑波大学で政治学を教えることになりました。」と。そしたら誰も信用してくれない。その時はそのまま帰って、助教授の時、熊本日日新聞の論壇時評に、一年間執筆しました。それでようやく皆が、「筑波大学に本当に行ったんだ」ということを信用してくれました。
 筑波大学では17年間教えました。そして50歳の頃、東京大学から「来ないか」という話がありました。東大法学部から、「日本の政治を教えてほしい」と。そこで、その話があった時に家族と相談したら、まず、娘達から反対です。「お父さん、東大はあんまり似合ってないから行かない方がいいよ。筑波大学で頑張りましょう。」と。妻もそういうふうに言うんです、「せっかく筑波で家も建てたから、もう東大に行かなくていい。」と。でも、そう反対されると力が出てくるものですから、じゃあ東大に行こうということで、50歳の時に東大の法学部の教授になりました。そして、東大法学部で11年間教えました。最初、法学部の学生が二年生の専門科目で最初に取るコースが私の政治過程のコースなんです。とても広い教室で、学生が300人くらい履修しています。私は東大で勉強したことがありませんので、どのような教え方をすればいいのか分かりませんから、一生懸命に準備して行ったんです。そして、27回の授業をしました。最後の授業が、「国際化の中の日本政治」という授業でした。そして、終わった瞬間に、200人から250人ぐらいの学生が、みんなで拍手してくれたんです。私も大学で長く教えましたけど、一度も授業が終わった後に拍手をされたことなかったものですから、素晴らしいなと思って、東大が大好きになりました。そしてその次に、学部の学生相手にゼミをしました。学生が大体20人居るんですが、最初のゼミのテーマが「新しい政治の新党の研究」ということで、そこで集まった学生達が私と一緒に研究して、「新党全記録」という本を出したんです。一冊1万円で三巻ありますから全部で3万円という高い本なんですけど、とても良い本だと思います。そうして、いよいよ11年間が終わりました。