第4講 学問の道へ
2011年03月28日

 次第に、私の「阿蘇で牛を飼う」という夢がしぼんで来ました。そういう状況の中で私にとって幸運だったのは、ネブラスカ大学というところで3か月間だけ学科研修があったことです。この3か月間の学科研修が私にとっては救いでした。
 これまで、ずっと勉強したことがありません。そして、モーゼスレイクを出て農業研修生として苦しい生活を送っていたのですが、その中で3か月間だけのネブラスカ大学での学科研修に遭遇することによって私の人生は変わりました。学科研修に行った時に、私は高校まであまり勉強しませんでしたから、初めてネブラスカ大学という所で真剣に勉強したわけです。
 その時感じたのは、「肉体労働に比べると、学問というのはなんと楽なんだろう。ただ、勉強するだけでご飯が食べられる」。そう真剣に感じたのです。高校生や中学生の皆さんも、今は勉強が辛いと感じるかも知れませんが、辛い肉体労働に比べると、勉強はとっても楽だと考えてもらいたいと思います。
 根がとても単純なものだから、「学問は面白い」、「学問は楽だ」と思うようになり、研修が終了しても、「もう一度勉強したい。アメリカに戻って勉強したい」と感じたわけです。それで、ネブラスカ大学の研修生のプログラム担当者にクリントン・フーバーさんという方がいたのですが、この方に「もう一度ネブラスカ大学に戻りたいから、来年の農業研修生の通訳として雇って欲しい」と頼みました。
 このフーバーさんという方がとっても気のいい人で、「君は成績も良いから来年帰って来たら通訳として雇ってあげる」そして、「通訳をしながら大学入試の勉強をしたらどうか」ということを言ってくれました。ほんの一筋の灯りでしたけれども、その時希望が燃えてきたわけです。「日本に帰ってもアメリカに戻り、もう一度ネブラスカ大学に入学しよう」。そのような気持ちでまた農場に戻りました。そして農場に戻って約3か月が終わった後で、日本に帰ってきました。
 21歳で日本を離れ、研修は2年間でしたから、23歳の時に日本に帰ってきました。しかも、ネブラスカ大学に戻るんだというその一点だけで帰ってきました。ただ、困難が3つありました。1つは、どうやってネブラスカに戻る費用を稼ぐかです。その当時、片道で旅費が35万円かかりましたが、我が家は満州からの引き揚げで、兄弟もたくさんいて、家からは1銭も貰えません。そこで、私の義兄が、名古屋で牛乳販売店をしていましたので、半年間だけ働いたら旅費を出してくれるということで、6か月働いてようやく35万円つくることができました。
 もう1つは、高校に行って、大学入試のための推薦状と成績証明書を書いてもらうことです。でも、成績証明書といっても成績は悪く、ほとんど「1」か「2」ばかりです。そして、その頃留学する人なんてほとんどいませんでしたから、高校の先生に「留学します」と言ってもなかなか信用してくれませんでした。それでもなんとか説き伏せて、高校の先生はとても優しいので、最後は一所懸命推薦状を書いてくれました。そしてたぶん、成績証明書も少し底上げして書いてくれたのかなと思います。こうして、2番目の問題もクリアです。
 3番目の問題が大変です。21歳の時に初めてアメリカに渡りましたが、20歳の頃から熊本で付き合っていた女性がいました。日本に帰ったら結婚しようということで、アメリカにいる間もずっと2年間文通で繋がっていました。ところが、またアメリカに留学するので、「もうちょっと待ってくれ」と言ったものですから、「それだったら、もう別れましょう」という話になり、別れの危機になりました。しかし、「アメリカに渡ったら、必ずあなたを呼ぶからしばらく待ってください」と説得して、24歳の時にアメリカに戻りました。高校を卒業してから6年が経っているわけです。